ニュース

お知らせ 2021/12/10 季刊誌 神奈川芸術劇場 「KAAT PAPER」

季刊誌 神奈川芸術劇場 「KAAT PAPER」は、KAAT神奈川芸術劇場が年4回発行する広報誌です。

 

2022年春夏号 篠山紀信(写真家)×長塚圭史(KAAT神奈川芸術劇場 芸術監督)

ウェブ特別版 ロング対談公開中!

 

配布箇所:KAAT神奈川芸術劇場、神奈川県民ホール、神奈川県立音楽堂、みなとみらい線日本大通り駅 ほか



【最新号はこちら!】

2022年春夏号

電子ブック版はこちら

PDF版はこちら

 

特集 芸術は、越えていく

対談 篠山紀信(写真家)×長塚圭史(KAAT神奈川芸術劇場 芸術監督)

ウェブ特別版 ロング対談公開中!

 

●「越境」で演劇は、広く、深く、豊かになる

●REVIEW

●神奈川へ、会いに(横浜かをり)

●長塚圭史の思いつき

●今日はKAATに何しに来たの?

●公演スケジュール

 

 

2021年冬号

電子ブック版はこちら

PDF版はこちら

 

特集 芸術を愛し、街を愛す

対談「街と芸術の関りとは」田井昌伸(野毛大道芸実行委員会)×長塚圭史

 

●街と芸術を愛すること

●YPAMって知ってる?

●YPAMはここが面白い!

●神奈川へ、会いに(ホテルニューグランド)

●KAATでYPAMを楽しむ

●今日はKAATに何しに来たの?

●ただいまKAAT準備中

●REVIEW

●公演スケジュール

 

 

2021年秋号

電子ブック版はこちら

PDF版はこちら

 

特集 新芸術監督 長塚圭史のすべて

対談 「芸術監督って大変ですか?」ロバート キャンベル×長塚圭史

 

●冒ってなんだ?

●長塚圭史の基礎知識

●KAATな人の行きつけ

●神奈川へ、会いに<横浜中華街発展会>

●今日はKAATに何しに来たの?

●ただいま、KAAT準備中

●REVIEW

●公演スケジュール

 

最新号2022年春夏号 対談

篠山紀信(写真家)×長塚圭史(KAAT神奈川芸術劇場芸術監督)
時代の変化と共に歩み・写す巨匠の軽やかな「越境」 特別版

 

『十八代目中村勘三郎写真集』を始め、数多くの舞台や俳優たちを撮り続ける写真家の篠山紀信さん。舞台を撮り続ける意味や、これまで目撃してきた「越境」の瞬間を、長塚芸術監督と語り合います。

(KAAT PAPER2022年春夏号に収録した対談のウェブ特別版です)

取材・文=尾上そら  撮影=五十嵐一晴

 

 

二人の出会いと「演劇を撮る」ということ

 

長塚 篠山さんに久々にお会いできて嬉しいです。

 

篠山 確かに久々で、しかもKAATのホール舞台上という光栄な場所にお招きいただいたけれど、僕に話せることなんかあるかな?

 

長塚 もちろんですよ! ここは舞台芸術の関係者や演劇に興味のある方にはよく知られた劇場ですし、自主制作での年間公演数も非常に多い。でも所在地である神奈川県はとても広い自治体で、県の西側に住む方々など、まだKAATに触れていただけていない県民の皆さんもたくさんいらっしゃるんです。だから劇場や舞台芸術への入り口を増やしてKAATを知っていただくため、昨年僕が芸術監督になってから、広報誌の内容も色々変えていて。篠山さんのようにジャンルの異なるアーティストや、学者の方などにもお声がけしてお話を伺うようにしているんです。

 

篠山 異ジャンル枠で呼んでくれたんだ(笑)。出会ってから結構経つけれどアナタ、留学したり芸術監督になったり、どんどん偉くなってますね。

 

長塚 (笑)別に偉いわけではないですよ、芸術監督は。

 

篠山 最初の頃に観た芝居なんか、舞台上に本物のトラックがドーンと突っ込んで来て、あれはサイコーだったけど、偉くなるにつれて「真面目な芝居をしなきゃ」とか思い始めちゃったんじゃないかなぁって。

 

長塚 阿佐ヶ谷スパイダースの『はたらくおとこ』(2004年初演)ですね。一番最初は02年の『ポルノ』を観てくださったんですよね。

 

篠山 若い世代の小劇場演劇なんか観たことなかったんだけど、僕は当時、小島聖さんの写真集がつくりたくて。自分の考えをしっかり持った人だから、まずは彼女の仕事をちゃんと観なければと調べたら、長塚さんの劇団公演に出ていたんですよ。小島さんの魅力もちゃんと引き出されていて、彼女に話を聞いたら「長塚さんは大した人なんだ」と言われ、以来長塚さんの公演は可能な限り観るようにしてきたんです。

 

長塚 同世代の演劇や演劇人を撮る機会はなかったんですか?

 

篠山 写真を撮り始めた頃に、早稲田小劇場(鈴木忠志、別役実らが1966年に結成した劇団)の稽古場は撮影に行ったことがあるよ。看板女優の白石加代子さんの、イイ写真が撮れたんだけど。その稽古中、剣道着で竹刀を持った男が舞台の花道みたいなところから走り出て来て、白石さんにワーッと文句を言うシーンがあってすごく面白かった。でも本番を観に行ったらその場面がなくて、「なんでなくなったの?」と訊いたら「あれは演出・鈴木のダメ出しです」って(長塚爆笑)。後は唐十郎の状況劇場にも行った。

 

長塚 当時すごく人気があったんですよね?

 

篠山 というか、カメラマンの間で「モダンジャズを聴き、アングラ演劇を観ないと写真が上手くならない」という伝説が、まことしやかに囁かれていたんですよ。当時はセロニアス・モンクなどジャズの巨匠が続々来日していた頃。あともう一つがATG(日本アート・シアター・ギルド)映画かな。でも僕が面白いと思えるものはなかなかなかった。ほらぁ、ゲストの人選間違ったんじゃない?(笑)。

 

長塚 いやいや、そんなことはありません。

 

篠山 あ、長塚さんの芝居でもう一つ、すごく良かったのが三好十郎だった!

 

長塚 葛河思潮社『浮標』(11年初演)ですね。あの時は驚いた。観終わった紀信さんが楽屋へ飛んで来て、「良い舞台だ。なんでオレに撮れって言わない!」と詰め寄られて。「ぜひお願いします」と言ったら、火の玉みたいな勢いで撮りに来てくださったんです。

 

篠山 写真にするには難しい舞台だったんだけど。そうだよ、あの時「興味があるものは全部写真になると思ったら大間違い。これは本物の演劇だから、君には無理だ」くらい言ってくれても良かったのに。

 

長塚 言えるわけないじゃないですか!(笑)。

 

篠山 ちょっと長過ぎるのが難だけどね。

 

長塚 クレームは三好さんにお願いします(笑)。

 

 

幅広い地域と人に喜ばれる作品が持つ普遍性

 

篠山 あと、PARCO劇場で観た『ピローマン』(04年)も良かった。長塚さんは、『はたらくおとこ』もそうだけど、自作でも他の人の戯曲でも、社会に渦巻く暴力的なエネルギーが爆発する瞬間を演劇で描かせるとすごく上手いと僕は思う。

 

長塚 ありがとうございます。

 

篠山 でもKAATではそんな、長塚さんの得意な部分だけの創作をしていればいいわけではないよね? まず神奈川県民のことを考えないといけない。

 

長塚 はい、最初に言ったように作品づくりだけでなく、劇場を知っていただいたり、舞台芸術全般に興味を持っていただくことも仕事のうちですね。

 

篠山 同じことをダンスでやっているのが、りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)の専属舞踊団Noism Company Niigataの芸術監督をやっている金森穰さんですよ。ここでも公演しているよね?

 

長塚 何度も来ていただいています。

 

篠山 アナタだったら阿佐ヶ谷スパイダース、金森穰ならNoism。それぞれの集団や作品の良さがわかる人が主たる観客で、でも芸術監督がめざすのはそこではなく、初めて劇場に来た人が観ても面白い作品をつくること。違う?

 

長塚 いや、まさにそういうことで、今エネルギーを注ぎ込んでそのことに取り組んでいるんです。つい先日終わったばかりの『冒険者たち ~JOURNEY TO THE WEST~』という作品は、西遊記をベースに、三蔵法師と孫悟空ら一行が何故か神奈川県に迷い込むという設定で。県内の様々な故事・俗伝、各地の神様、美味しい店なども物語に取り込み、生演奏や歌、影絵など演劇のマジックをふんだんに盛り込み、おとなも子どもも楽しめるような趣向でつくりました。神奈川県内を巡演しましたが、これがありがたいことにウケました。結構、演劇的には尖ったこともしているんですが。

 

篠山 ちゃんと伝わったでしょ?

 

長塚 そうなんです。県知事もご覧になられて、「ぜひ続けて欲しい」とおっしゃっていただきました。ご当地の名所・名物が出て来る場面は驚くほど反応が良くて。

 

篠山 東京オリンピックのプレ事業で、野田秀樹さんが総監修をやっていた「東京キャラバン」が同じ発想なんだよね。各地にアーティストを派遣して、地域の郷土芸能や祭礼、それぞれの文化と人材を取り入れたクロスオーバーなショウを構成し国内を巡るというもので。感染症禍のため、志半ばになってしまったけれど、でも非常に意義のあるもので観客の舞台芸術の経験値などに関係なく楽しめるものになっていたと思う。そういう創作や地域を回っての公演の大切さに、長塚さんが気づいたところはエライ!(盛大に拍手)。

 

長塚 ありがとうございます。

 

篠山 そういう、現地に出かけて人や題材と出会い、自分の肉体に取り込んで作品化していく過程はとても重要だし、幅広い地域と人に舞台芸術やアートを繋げていくためにも必要なことだと思いますよ、私は。

 

『冒険者たち ~JOURNEY TO THE WEST~』(KAAT 中スタジオ)  写真:宮川舞子

 

作品の中に入り、演者と同じ側から撮影する

 

長塚 今回のKAAT PAPERのテーマが「越境」で、紀信さんはジャンルや世代、流行、国境などあらゆる境界を越えて来た越境者だと思うんです。中でも、先ほど名前の出たNoismの作品などでは、舞台上に篠山さん自身も一緒に上がり、進行する作品の中に入り込んで撮影していますよね? 究極の「越境」ではないかと思うのですが、あれはどういう発想がもとにあるのでしょうか。

 

篠山 一番最初に「舞台に上がって撮りたい!」という衝動を感じたのは、さっき話した早稲田小劇場の稽古場だね。でも竹刀で叩かれたらカメラが壊れると思って引いたけど(笑)、鈴木さんが自分の芝居に対してグワーッと熱が燃えた時は、芝居の虚と現実の境目がなくなり、観ているほうも感動する。「これはスゲエな」と。そんな熱の渦中に入ったら、見えるものも違うと思うでしょう? で、気づいたら身体が動いてしまう、ということですよ。アナタは俳優もやるからわかるんじゃないかな、この感覚。

 

長塚 わかります。

 

篠山 Noismはカメラ越しに観ていても、段々近づいていきたくなるし、最後は踊りたくなってくる。NODA・MAPの舞台稽古なんかも同じで、最初こそびっくりする人もいるけれど、すぐ皆さん「あ、篠山は舞台に上がって撮るんだ」と飲み込んでくれて。もちろん、上ってはいけない舞台もあるけれど。

 

長塚 それはどういう作品ですか?

 

篠山 歌舞伎はいけないものもある。長く撮り続けている(坂東)玉三郎さんは、舞台稽古は「上がっていい」と言うけれど、全部が全部OKってわけではないね。あと歌舞伎は観客がいる時といない時では舞台上の役者の心意気がまったく変わるから、本番しか撮らない。でも、「舞台に上がって一緒に踊らなければ撮れない」とまで思わされたのはNoismかな。NODA・MAPは、撮影用のライトを特別に入れると役者がイイ表情、イイ芝居を見せてくれたりするんです。だから段々、舞台に上って一緒に芝居をして撮る機会が増えていったというところはあるね。それを野田さんは許してくれた。

 

長塚 僕が演出した芝居ではハロルド・ピンターの『背信』(14年)を、舞台上で撮っていただいたんですが、撮影している紀信さんの気配がまったく気にならなかったのがすごいなと思って。

 

篠山 よけるのと消えるのが上手なんだよ、ダンサーだってひょいひょいですよ(長塚笑)。一度もぶつかったことがない。

 

 

肉体派の写真家は体験にまみれて創作する

 

長塚 海外に対してはどうなんですか? 僕は08年からイギリスに一年間留学していて、その時は、それまで自分が劇団でつくり続けていた芝居について煮詰まったりもしていて、心の休息と充電の両方を外国に求めたところがあったんです。紀信さんにとっての海外は、どういう場所なんですか?

 

篠山 カメラマンは海外に行かなくちゃダメ。全て体験し、体感しないと写真は撮れないんですよ。例えば僕は東京生まれの東京育ちで、「海」と言われて思い浮かぶのはせいぜい江の島。駆け出しの頃、「海でヌードを撮ろう」と思い立ち、モデルを連れて三浦半島の海岸に行ったんですよ。その写真をカメラ雑誌の編集者に見せたら「お前は海を知らない、本物の海を見たことがないだろう」と言われて、ハッと気づいた。さらに「本気でカメラマンになるなら、透明な海で強い太陽に灼かれて痛い思いして撮った写真を持って来い」と突き返され、一念発起してバイトで資金をため、徳之島に一週間、モデル5人のロケ隊ごと行って撮影したのがコレ(取材当日に篠山氏の着衣にプリントされていた1968年の作品「birth」)ですよ。

 

長塚 この作品カッコいいよなあ!

 

篠山 当時はまだ沖縄が復帰していなくて、国内線で行ける一番南の島だったんだけれど、飛行機を降りたとたんに空気も日差しも海の美しさも何もかもがあまりに違い、「モデルが裸ならオレも裸だ!」と脱いで撮影して(長塚爆笑)。翌日は全身やけど状態で休みましたよ(苦笑)。そこからは、海だけじゃなく山も雪もなんでも「行かなきゃわからん!」の精神で、世界中に出かけていくことになる。

 例えばリオのカーニバルを撮った「オレレ・オララ」(71年)。あれは、4日間町中が踊り続ける祭りの渦中での撮影で、通りを渡りたくても踊る人波に遮られてしまう。でも、踊りながら飛び込んでいったら通りも渡れるし撮影もできた。そんな体験全てが、僕の写真になっているんです。もちろん頭の中で構図やイメージをつくり込む、観念的なカメラマンもいるけれど、僕のような肉体派はその場に行き、現象や行為にまみれて撮らないとダメなんだよね。芝居も同じなんじゃない? 観念だけの、頭でっかちにやっているだけでは限界があって、生身の身体と声でどっぷり作品や役に浸らないと見えて来ないものもあるでしょう。

 

長塚 確かに、そういう一面はあると思います。紀信さんは東日本大震災の時も、直後から東北に入って撮り始めましたよね?

 

篠山 ああいう時こそ迷わずに行かなければダメですよ。新聞報道など、他人の撮った写真からは何も得られない、僕みたいなタイプはね。

 

長塚 なるほど、それこそが篠山紀信の「越境」なんだ! お話を伺いながら、ガツンと腑に落ちました。南海の島も南米の祭りも、震災の被害を受けた土地も全て体感しなければ納得できないし、その先にしかご自身の写真、クリエーションはないんですね。

 

 

急激に変わりゆく時代を撮り続ける「宿命」

 

長塚 去年、東京都写真美術館で開催された「新・晴れた日 篠山紀信」という写真展を見に行き、これがすごく良かったんです。

 

篠山 それは嬉しいね。75年に「晴れた日」という写真集を出しているんだけど、その続き、60年間撮り続けた写真を、それこそジャンルを越境して編んだ展覧会だね。

 

長塚 まさに、あの美術館のフロアに昭和と平成が丸ごと、凝縮して詰め込まれたようで衝撃を受けました。

 

篠山 丸ごとは入っていないよ、僕が生まれたのは昭和15年だから(笑)。

 

長塚 どうしたらあんな風に、時代を生々しく体感しながら並走することができるんですか?

 

篠山 僕の場合、カメラマンになった動機から既に不純でね。実家はお寺さんなんだけど、「家業は長男の兄が継ぐから、お前は将来好きにしろ」と放任されてしまった。時代的にも戦争が終わり、東京に焼け野原が広がっていた頃から小学・中学・高校と青春時代を過ごし、大学生になる頃には、みんなが必死に勉強して「良い大学に入り、良い会社に勤める」ことを目標としているような風潮だった。で、その優良企業に定年まで勤めるのが良い人生なんだ、と。そんな高度経済成長を、まんま体験しながら育っていったわけですよ。

 

長塚 凄まじい時代のうねりを肌身で感じられたんですね。

 

篠山 「受験戦争」なんて言葉ができて、予備校も乱立して、僕でさえ「良い大学に行こうかな」と思って受験したら、最初の年は難しい大学に全て落ちてしまった(笑)。周囲は二浪三浪当たり前だったけれど、僕はハタと気づいた。「また同じこと(受験勉強)をするのは面倒だろう」と。

で、たまたま新聞を読んでいて小さな広告を見つけた。それが日本大学の写真学科についてのもので、「大学で写真を教えてくれるんだ、面白そう」と。気楽に受けたら、こっちはアッサリ合格しちゃった。受験当時は入る気はあまりなかったんだけど、景気は上向きだし、仕事もありそうな業界だからとそのまま進学したんですよ。

 

長塚 不純というより“直感”なんですね(笑)。

 

篠山 日本全体がイケイケどんどん状態で、何をしていても将来が悪くなるなんて誰も思っていないんだ。で、入った大学では驚いたことに写真を教えない! 「第二外国語は仏語ですか、独語ですか?」なんて訊かれた挙句、体育まであって跳び箱を跳べって言うんだから堪らない。突き指でもしたら、シャッターが押せないだろうと(長塚爆笑)。こちとらカメラの技術や現像のやり方を知りたいのに、冗談じゃねえ。まあ、ちゃんとした大学はみんな、そういう一般教養があるんだよね、1、2年時には。周りには「家が写真館をやってます」みたいな連中ばかりで、僕の考えていた環境とは全く違った。

 

長塚 篠山さんは何を期待していたんですか?

 

篠山 僕は、写真は儲かると思ったんですよ。経済が上向きだと、派手な広告をあちこちで見るようになって、写真の役割が芸術や報道だけでなく、広告分野での需要がどんどん高まっていく時期だったから。資生堂など、広告にすっごい力を入れる企業も出て来ていたし、時代そのものがものすごいスピードで激しく変わっていく。それを撮影して記録するという、どこか宿命じみた、写真家と時代との関係を本能的に察知していたのかも知れないね。

 

 

学びの途中で出会ったスゴイ才能たち

 

長塚 在学中、記憶に残る出会いなどはありましたか?

 

篠山 2学年上に横須賀功光(よこすか・のりあき。1937年~2003年)さんがいて、後に前田美波里や山口小夜子なんかを撮り、海外のファッション誌でも活躍していたカメラマンで。この人は在学中から仕事をして、もうスターだったね。

 

もう一人、同じクラスにペンタックスのカメラに135ミリのレンズをつけて持ち歩いていた、いかにも写真の上手そうなのが一人いて、「写真館の息子じゃなさそうだ」と近づいてみたら沢渡朔(さわたり・はじめ。1940年~)だった。話しかけたら写真雑誌を出して、「高校生の部 特選」と見開きに掲載された写真を見せてくれて、「コイツと友達になろう!」と(笑)。

 

長塚 早速、スゴい人たちと出会ってしまうんですね。

 

篠山 沢渡さんは、当時「政治の季節」と言われて盛んだった学生運動などに興味があって、あの頃は報道写真に傾倒していたんですよ。でも僕は一貫して「お金を稼ぐ」ことが主目的だったから、まだコマーシャル・フォトなんて言葉はなくて「商業写真」と言っていたけれど、そちらの世界へ行ける道をひたすらに探していた。で、写真の専門学校があることを知るんですよ。しかも専門学校には秋山庄太郎(あきやま・しょうたろう。1920年~2003年)や中村正也(なかむら・まさや。1926年~2001年)、奈良原一高(ならはら・いっこう。1931年~2020年)、細江英公(ほそえ・えいこう。1933年~)などという、当時写真業界で大活躍していたカメラマンが教えに来ると聞いて。だから写真専門学校の夜間部に、昼の大学と掛け持ちで通うようになったんです。専門学校の昼間部には、操上和美(くりがみ・かずみ。1936年~)もいたな。

 

長塚 そうやって、学生時代から着々と広告写真の世界に足を踏み入れていった、と。

 

篠山 そう、必死に勉強してね。その頃から公益社団法人日本広告写真家協会が主催する写真展でAPA賞をつくったり、「コマーシャル・フォト」なんて雑誌もできて、広告重視の流れはできつつあった。撮っているのは古参のカメラマンが多く、センスも古かったんだよね。一方の僕らは経験が少ないから技術的には下手だけれど、若い感性だけはあったから。って、こんな話、劇場の広報誌でしていいの?(笑)。

 

長塚 ジャンルで切るなんて勿体ない、とても貴重で面白い話です。是非続けてください。

 

篠山 「Harper's Bazaar」や「VOGUE」など海外のファッション誌を見ては、小ジャレたグラビアに憧れて真似たり、さっき話した来日したジャズ・ミュージシャンを撮ったり。そうやってあちこち顔を出していると、同じような感覚の人間が周りに寄って来るんです。

 

長塚 それは仕事として撮影していたんですか?

 

篠山 両方同時だね。仕事で稼いでは機材につぎ込み、作品撮りのためのモデルを雇ったり、なんてことをしていました。

 

 

すべてを写真につぎ込んだ青春時代の記憶

 

長塚 プロになったのは大学を卒業してからですか?

 

篠山 大学と並行して行っていた専門学校は2年で卒業だから、学校に籍を置いたまま専門学校の推薦で就職しちゃったんです、ライトパブリシティという新興の広告会社に。「大学がある」と言ったら、「学校なんか試験の時だけ行けばいいんだ」って言われて(笑)。当時の仕事は難しくてね。たとえば家電の撮影、商品写真を撮るとするでしょう? 被写体に興味も持てないうえ、当時足つきだったテレビの、その「4本の足に均等に光が入っていないといけない」とかクライアントは言うわけです。冷蔵庫は上から撮るんだけど、そのままだと下の部分が細く見えるんですね。でも、上下が同じ幅で写っていないと商品写真の価値がない、とか。そういう撮り方を“あおり”と言うんだけど、そういうことは全部現場で覚えた。先輩カメラマンにいじめられながらね(笑)。

 

その合間にヌードなど、自分の作品も撮っては投稿や写真誌に持ち込んだりしていて。で、61年のAPA賞をもらっちゃって。まぁライトに入社したのが有利に働いたんだと思うけれど。そうすると、技術はまだまだなのにとにかく仕事が舞い込むようになって。めでたく稼げるようになったわけです。ほら、言動一致してるでしょ? まぁ収入は全部カメラと機材につぎ込んでいたけれど。

 

長塚 なるほど。

 

篠山 もちろん、これも時代と合ったからこそできたことですよ。そこから4、5年はそりゃあ真面目に働きました。来る仕事来る仕事、ひたすらに撮り続けて。でもそうすると今度は、自分で撮りたいものが出て来る。

 

長塚 それは何だったんですか?

 

篠山 世の中で起こるさまざまな出来事、話題の人物なんかだね。当時、これまた週刊誌の黎明期で、どんどん媒体が増えていった。ポスターやグラビアなど広告写真に名前は載らないけれど、雑誌ならば撮影者の名前が載るでしょ? それを目当てに雑誌の仕事もバンバンやった。さっきの、徳之島での「birth」もそうして撮った作品のひとつ。仕事もクリエーションも、興味を持つこと全部が繋がって、さらに道が開けていく。特別な時代だったし、時代に合うことが本当に大切だったんです。

 

長塚 それは、撮る題材も含めてですか?

 

篠山 そう! すべてのことを写真に費やした、私の青春時代でございます(笑)。

 

長塚 「新・晴れた日」展で受けた衝撃の理由が、今の紀信さんの話で解けたような気がします。あの展覧会で見たのは「時代を丸ごと取りこぼさずに撮った写真」でしたが、それは紀信さんの時代との向き合い方、とことん時代と並走する覚悟に打ち抜かれたんですよね。

 

篠山 写真というメディアは、常に「世界を見ている」んです。今自分が生きている時代、場所にちゃんと向き合い、起きることに目を凝らす。その意味ではアートもファッションもスポーツも皆んな同じ。そういう写真を撮り続けて来たから、長塚さんにも会えた。

 

長塚 紀信さんはあらゆるジャンル、隔てを越えて来た越境者だし、面白いものはなんであれ嗅ぎつけて自分の表現、自分の写真にしてしまう。それが何処からやってくる感性なのか、改めて伺いたいと思っていたんですが、その秘密は「時代」との向き合い方にあることがよくわかりました。

 

篠山 もちろん、写真に向かない時代の現象もあるけれど、それも、その場に行って自分で嗅いで味わってみて、「マズいや、ペッ」としてみて初めてわかること。僕は、そういうカメラマンなんです。

 

 

柔らかく開かれた劇場にするため「芸術」を考える

 

篠山 でもアナタだって、時代と合ったから今ここにいるんでしょう? 『はたらくおとこ』も三好十郎も、時代に合った作品になっていたから僕が観て面白かったんだし。

 

長塚 でも、『はたらくおとこ』の初演の頃は、作品が好評だからこそ余計に「この熱狂は続かないだろう」と僕は思ってしまい、その危機感から留学へと向かっていったんですけど。最後にもう一つ伺っても良いですか? 訊き方が正しいかどうかもわからないし、失礼な質問なら謝るしかないんですが、紀信さんにとって「写真」は芸術ですか?

 

篠山 あっはっはっは! それは、僕なんかに訊く質問じゃないよ。

 

長塚 いや、紀信さんだから訊いてみたかったんです。

 

篠山 僕は、取り立てて「コレは芸術だ!」なんてつもりで写真は撮りません。ただ、若い頃の、がむしゃらに写真で稼ごうとしていた時には、「芸術として撮って」「娯楽でお願い」という両方のオーダーに応えたし、自分で言うのもなんだけど見事に撮り分けましたよ。だから、両方できます。

 

長塚 そうですよね。いや何故訊きたかったかと言えば、この劇場の名前にある、「KAAT神奈川芸術劇場」の「芸術」って何を指すんだろうと、就任前からずっと考えていて。洗練された作品と共に、観客が笑いながら一緒に盛り上がれるような身近で気楽に観られる作品も劇場には不可欠だと個人的には考えていて。

 

篠山 それは寄席に行けばよく分かる。リラックスして笑って楽しんでいたのが、急にスーッと高みへ連れて行かれるような落語家さんがいたりするじゃない?

 

長塚 ありますね、そういうこと。

 

篠山 見に行ってくれた「新・晴れた日」は、その意味では「写真を芸術として見せる」ことが目的でもあったんですよ。でも、「コレが芸術だ」とは自分からは言っていない。時代時代に撮った、あらゆる種類の写真がすべてあの空間に並べられていて、見た目はバラバラだけれど、そこに内包する時間、写された時代が芸術になったというか。

 

長塚 まさにそう! 「時間」と「時代」ですね、あの展覧会の核になるのは。

 

篠山 だから今もらった「写真は芸術か?」という質問には、僕自身興味がないから的確には答えられないかな。どっちでもいいんだもの(笑)。ただ「芸術っぽく撮って」と言われたら、相手が何を狙っているかはわかるけれど。逆に、長塚さんの舞台を観に行って、つまらないなぁと感じた時は、「あぁ、芸術をやってるんだ」と思う。

 

長塚 ソレ、もうこれまで何度言われたことか!(苦笑)。

 

篠山 そんなつまらない質問してないで、やりたいことをやんなさいよ! アナタはそれができる人なんだからさ!! 「芸術なんてなんでもない!」くらいの気概でないと、作品も面白くならないし、何よりつくることが面白くなくなるでしょう。

 

長塚 そうですね。だから「新・晴れた日」のような、内容も空間も一切の境い目や区別も排し、自由でのびやかな状況に僕は惹かれるし、劇場もそういう場所になればいいと今日のお話を伺って改めて思いました。アイドル誌の表紙からアート的な自然の写真まで、混然一体となっていましたからね。

 

篠山 じゃあ次回は「演劇論vs写真論」のテーマで話そうか?

 

長塚 望むところです。この場では伺い切れない続きが、まだまだありますので是非お願いします。今日は長時間にわたり、貴重なお話をありがとうございました。

 

 

(プロフィール)

篠山紀信
写真家。1940年東京生まれ。日本大学藝術学部写真学科在学中に広告写真家協会展APA賞受賞。広告制作会社「ライトパブリシティ」を経て、68年より写真家として活動。66年東京国立近代美術館「現代写真の10人」展に最年少で参加。76年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の代表作家に選出される。71年より『明星』の表紙を担当して以降、時代を牽引する存在となる。2020年第68回菊池寛賞など受賞歴多数。