「Kappa/或小説」 三浦基氏 記者懇談会レポート
去る2月7日、新作『kappa/或小説』公演に先駆けて「地点」代表・演出家である三浦基氏を招き、ワークショップ及び「『地点』を知る会」と題したトークセッションを、KAAT8階のアトリエで開催した。演出家自身の演劇的ルーツや、過去作品の映像を見ながら「地点」の演劇的手法について紹介し、後半では新作の創作過程について詳細に解説するという貴重な1時間半となった。
僕は劇作家ではないので、何か自分に言いたいことがあってものを書き、それを世に問うタイプではありません。誤解を恐れずに言えば、僕の創作は医師の診断に近いところがある。対象とする作品や人物、今回で言えば作家ですが、「こんな問題・症状を抱えた人がいるけれどどう思う?」という問いかけに対し、自分なりの診断をして処方を出す。それが僕にとって、対象を演劇にすることなんです。こう言うとなんでも演劇にできるように聞こえるかも知れませんが、そう簡単にはいかないことに薄々感づいては来ました(笑)。
芥川龍之介を題材に選んだのも、平たく言ってしまえば直感的なものです。KAATのこけら落としのテーマが「日本文学」で、芸術監督の宮本亜門さんは三島由紀夫を取り上げる、と。そう聞いたときに自分の中で連鎖して想起した、何人かの作家のうちの一人が芥川です。
医師的な視点で見るに、芥川は非常に病んでいる。何せ確たる理由もなく、「唯ぼんやりした不安」のために神経を衰弱させて自殺してしまうのですから。それも生前から何枚も遺書を書き、薬を飲み続けるという「周到に用意された死」なんです。さらに彼の死は、文学界だけでなく当時の社会全体にも大きな影響を与えている。僕個人は作家・芥川の心酔者ではありませんが、患者・題材としては非常に魅力的だと思えたわけです。
戯曲は宮崎のこふく劇場主宰・永山智行さんにお願いしました。永山さんとの最初の接点は僕が留学から帰国した直後の2001年。平田オリザさんから「面白い戯曲があるから演出してみないか」と勧められたのが永山さんの戯曲でした。残念ながらこれは実現せず、その後もすれ違いが続いていたのですが、昨年愛知の劇団うりんこさんから太宰治の「お伽草紙」を児童劇に、という依頼をいただきまして。そこでようやく劇作家として一緒に仕事をすることができた。これが非常に上手く行ったので(来年KAATでの再演も決定している)、今回も上手く行くだろうと。
かつて日本映画は監督とシナリオライターがコンビを組み、上演台本・シナリオを創っていた。演劇には劇作家至上主義があり、相互交流的なテキスト作りが難しいのが現状。でも以前からそれとは一線を画したテキスト作りができないかという思惑を僕は持っていて、永山さんとのコンビが今後も上手く展開していけば画期的なことだと思っています。
今回で言えば、「題材は芥川後期の作品に絞りたい」「『用意周到な死』を劇作に仕込んで欲しい」というようなオーダーを僕が出し、それに応えて永山さんが多少のオリジナルを交えながら芥川の作品を抜粋・再構築した戯曲を書く。それを読んで僕が感じた違和感について話し合い、互いの意図をすり合わせ、最終的には僕がすべてを預かる。互いの作品を尊重し、責任の領域をしっかりわきまえた創作が永山さんとはできる。相当濃密なテキストができると思っています。
もう少し、芥川への取り組みについてお話ししましょうか。芥川は「行き詰まった作家」でした。古典や伝承をオリジナルに翻案して夏目漱石に激賞され、一気に注目を集めるけれど、彼にはそれ以降の作風が見つからなかった。
例えば太宰治には「戦争という検閲」があり、その抑圧が名作を生み出すきっかけになった。三島は戦後の平穏な日常に磨耗していく自分に対し、国を憂い蜂起するという事件を自ら設えて創作の糧とした。最終的にはそこに、己の死も組み込んでしまったわけですが。
芸術家、特に作家は創作のためのシチュエーションを自ら設定していくものだと思うのですが、芥川は一歩も自分からは踏み出さなかった。漱石のように海外に赴くことも、のちの無頼派のように私生活を切り売りすることもない。唯一それに近い体験として関東大震災の被災がありますが、それも彼にとっては一時的かつ曖昧なものにしかならなかった。それは書く材料もなくなるでしょう、と思いますよ。
動かず、働きかけず、何も見ようとしない。芥川は現代でいう引きこもりに近い在り様だったのではないかと僕は考えます。近代から現代の狭間で宙ぶらりんになってしまった「亡霊」のような存在。
現代演劇の戯曲に特有の、男1、2というように命名されない人物。あるいは自画像がわりに好んで描き続けた河童という異形。
漠然とした不安に怯え、常に死を身近に置きながら、どうしようもなく自惚れて自己を顕示し続ける芥川は、まるでツイッターやブログで呟き続ける人のようです。これでもか、これでもかと遺書のごとき文章を膨大に書き続ける。この作品の目指すべきところは芥川龍之介という作家を描くことではなく、自惚れと卑屈で自我を肥大させ身動きの取れなくなった、名を持たない小さな男が蠢く気配を舞台に乗せることのようにも思えています。
劇空間の設えも、今までの作風とは印象が変わりそうです。これまでも舞台上で映像技術を使って来ましたが、今回は劇中で映画作りをするという設定を取り入れ、舞台上にレールを敷いてそこにカメラ付きのトロッコを走らせます。俳優の演技と同時並行して、違う角度からその演技が映し出される。「誰が何を見ているか」が多眼的に描写される様は、「藪の中」に象徴される芥川の文体そのものだと思います。
これら幾つかの指針をコラージュすることで、今芥川龍之介を取り上げることのアクチュアリティ・同時代性に繋がっていくのではないか、というのが現時点での僕の見解です。ただし両義的なことを言うようですが、作家の在り様を舞台に乗せることや、題材の同時代性を暴くことは僕が演劇をやる目的ではありません。演劇は、あくまで説明不能なことを表現するための方法ですから、先の見解は、その表現の過程に表れるものに過ぎないのです。
<文:尾上そら>

